歴史小説に恥じない生き方(弁護士 新井裕子)
10代のころ、歴史小説が好きでした。
特に中国史ものが好きで、一番思い出に残っているのは「敦煌」(井上靖)と「重耳」(宮城谷昌光)です。
まあ「敦煌」の方は、殿試を寝過ごした主人公がふらふらと何かに導かれて人生の目的を見つけるような話で、本来喫茶店よりも寝ている方が好きな今の私にも多少マッチする題材といえますが、「重耳」の方は、春秋時代の晋の君主の三人の跡継ぎのうちもっとも凡庸ではないかと思われた次男の重耳が、実はさりげなくもっとも大人物で、数々の苦難を乗り越え不思議な人望を発揮、のちに名君として名高い晋の文公となる・・という放浪していながらも上向きな話で、まだ人生に無限の可能性を夢見ていた私を多いに興奮させたのでした。若さというものは恐ろしく、「重耳は私だ!」という間違った感情移入ですぐに幸せになれたというわけです(私だけではない・・はずだ)。
他にも、「三国志」を読んでは「自分は孫権だ(なぜか孫権)」と思い、「小説十八史略」(陳舜臣)を読んでは「自分は褚遂良だ」などと痛い勘違いを重ねてきました。自分と何の共通点もないのに、その気になれるところが不思議です。
ところが、大人になって久しぶりにこうした歴史小説を読み返すと、華々しい主要人物の陰で、「この人物はつまらない」「器が小さい」「小人だ」などと断じられている脇役が数多くあるということに目が行きます。もちろんこうした人物たちがいるから、主要人物たちの活躍が引き立ち話が面白くなるのですが、何やら時折自分のことを言われているようでさみしい気分になったりします。つまらない人も、器の小さい人も、小人も、みなそれぞれ乱世を必死で生きていたのであろうに。後世の神の目で書かれた歴史小説というものに、残酷ささえ感じることがあるのです。まあ、それも大人になったということなのかもしれませんが。
いずれにせよ、できれば、若いころに好きだった歴史小説に、そしてその頃の自分に、恥じない生き方をしたいものです。
投稿者 小山法律事務所 | 2012年5月 5日 18:00